三点リーダーは、主に余韻・含み・間など、文字だけでは表すことができない微妙なニュアンスを表現する時に使う文章記号の一種だ。ここでは、この三点リーダーと句点の扱いについて考えていく。
1. 三点リーダーとは
三点リーダー(…)は文章記号の一つで、主に発言・思考の中止や、言いよどみ、無言などを表す時に使われる。他にも文末に置いて余韻や含みを表現したり、文頭に置いて間を表現したりする時に使われる。通常、二つ続けて書く。
例えば、次のように使われている。
そりや伯父上……そりや伯父上あ……あ……余りでご……御座ります。
尾崎紅葉「色懺悔」
長くなった頸、飛び出した眼、唇の上に咲いた、怖ろしい花のような血の泡に濡れた舌を積み込んで元の路へ引き返した。……
夏目漱石「それから」
……が、待てよ。何ぼ自然主義だといって、斯う如何もダラダラと書いてみた日には、三十九年の反省を語るに、三十九年掛かるかもしれない。も少し、省略らう。
二葉亭四迷「平凡」
ご覧のように文学の世界では、文字だけでは表すことのできない間や情感を表現するために、三点リーダーは使われている。
2. 三点リーダーの前後に句点をつけるべきか
結論から言うと、三点リーダーは、豊かな表現力が求められる文学の世界において見られるのが常だ。そのため三点リーダーの前後に句点をつけるかどうかについては、ルール化するべきではなく、それぞれの意図に最も合うようなかたちで使えるように、作家が自由に判断するべきだ。
一方で、わかりやすい文章が求められる場合、つまりほとんどの場合は、使う機会はあまりない。それでも時には、どうしても三点リーダーを使うことが理に適っている場合もあるかもしれない。
そこで、句点の働きである「文の終止を明示する」という点から、基本的な原則を考えてみよう。
なお、三点リーダーを発言や思考の中止、言い淀み、無言の表現として使う場合は、明らかに句点は不要だ。そこで、ここでは三点リーダーを余韻や含み、間の表現として使う場合について考えていくこととする。
2.1. 三点リーダーが文中に来る場合
句点の働きを考えると、三点リーダーが複数の文の中(段落の中)に来る場合は、基本的には文(一つの完結した思想)の最小単位を明確に示すために句点を打つべきではないだろうか。
以下を見比べてみよう。
- 恩師の突然の訃報に言葉を失った……。人生とは儚いものだ。
- 恩師の突然の訃報に言葉を失った……人生とは儚いものだ。
二つ目も明らかに悪いという感じはしないが、「一つの完結した思想単位である」という文の定義から考えると、「恩師の……」と「人生とは……」は、それぞれ独立した文だ。そのため、「文の終止に打つ」という句点の基本原則に従って、句点を打った方が良いのではないだろうか。
ただし、微妙な差ではある。例えば、以下のように、三点リーダーを挟んだ前後の文の関連性が高い場合、あえて句点を打たないことによって表現できるニュアンスもある。
- 恩師の突然の訃報に言葉を失った……。ほんの三日前は元気だったのに。
- 恩師の突然の訃報に言葉を失った……ほんの三日前は元気だったのに。
具体的には、句点を打つことで、「言葉を失った……」後に、頭を切り替えて「三日目は元気だった」ということを思い出しているニュアンスになる。一方で、句点を打たないことで、「言葉を失った」時に、頭の中を駆け巡る様々な思考のうちで、「ほんの三日前は元気だった」ということにもっとも衝撃を受けているニュアンスになる。
結論としては、三点リーダーは、こうした非常に微妙なニュアンスを伝えるために使うものであり、わかりやすい文を書くために使うものではない。従って、わかりやすい文を目指すのであれば、三点リーダーは避けるべきだ。
なぜなら、わかりやすい文は、受け手の感性によって解釈が変わるものであってはならないからだ。100人が同じ文を見れば、誰もが同じ解釈をするほど明瞭でなければならないのだ。そのため、文字で明確に表すことのできない微妙なニュアンスの表現を行うべきではない。
補足. 「文」とは何か
なお「文」の定義は、意外と曖昧だ。私は、日本を代表する国語辞典である『日本国語大辞典』の定義を参考にしている。この国語辞典が、最も包含的・具体的に定義しているからだ。詳しくは、以下のボックス内で解説している。
2.2. 三点リーダーが段落の末に来る場合
三点リーダが段落の末尾に来る場合も、「文の終止に打つ」という句点の原則と照らし合わせて、マルを打つべきではないだろうか。
- まさか自分の身に、このような不幸が降りかかるなんて。私は信じるものを失った。いや、信じるということそのものが原因の本質なのではないだろうか……。
- まさか自分の身に、このような不幸が降りかかるなんて。私は信じるものを失った。いや、信じるということそのものが原因の本質なのではないだろうか……
しかし、これも非常に微妙だ。例えば、上でも示した夏目漱石の「それから」では、次のように、段落末において句点の後に三点リーダーを使っている。
長くなった頸、飛び出した眼、唇の上に咲いた、怖ろしい花のような血の泡に濡れた舌を積み込んで元の路へ引き返した。……
夏目漱石「それから」
これが誤植ではないとしたら、句点の後に三点リーダーをつけて、段落の結びとすることで、次の段落へ移るまでの間を自然と表現しているのだ。
やはり、三点リーダーは、文字だけでは表すことのできない間や情感を表現するために使うのであって、そのような複雑な表現が求められるのは文学においてである。わかりやすい文の場合は、完全に明瞭な文であるべきで、三点リーダーは可能な限り避けるべきだ。
2.3. 三点リーダーが文頭に来る場合
続いて、三点リーダーが文頭に来る場合はどうだろうか。その場合は、大体において句点は不要だろう。例えば、上で挙げた二葉亭四迷の文でも、三点リーダーの後に句点があると、おかしな調子になる。
……が、待てよ。何ぼ自然主義だといって、斯う如何もダラダラと書いてみた日には、三十九年の反省を語るに、三十九年掛かるかもしれない。も少し、省略らう。
二葉亭四迷「平凡」
……。が、待てよ。何ぼ自然主義だといって、斯う如何もダラダラと書いてみた日には、三十九年の反省を語るに、三十九年掛かるかもしれない。も少し、省略らう。
二葉亭四迷「平凡」
他にもいくつか文例を調べてみたが、三点リーダーが文頭に来る場合で、その後に句点を打っているものは見かけなかった。そのため、この場合、ほとんどのケースでは句点は打つべきではないだろう。
そのため、わかりやすい文を書くという点において、三点リーダーを文頭に置く必要がある場合は、その後に句点は打たないのが基本とすることができる。
しかし文学においては、新たな表現方法の開拓余地は、作家それぞれの手に任されるべきものであって、この場合は打つべきではないと一律に原則化するべきではない。
3. まとめ
以上のことから、繰り返しになるが、三点リーダーの後に句点を付けるべきかどうかについては、とても原則化できるものではないということが明らかになった。なぜなら、三点リーダーは文字だけでは表現できない微妙なニュアンスを伝えるためのものだからだ。
そして、わかりやすい文というのを、100人が読んで100人が、その解釈に迷うことなく、同じ解釈をする文と定義するとしたら、三点リーダーを使うべきケースはほとんどまったくないだろう。わかりやすい文を書こうとしている時に、三点リーダーを使うということは、細かい情景を伝える努力をサボっていることになってしまうからだ。そのため、わかりやすい文を書くという観点においても、三点リーダーと句点の関係を明確化する必要性は薄い。
以上、わかりやすい文を書く上では三点リーダーの使用は避けるべきである。文学における三点リーダーの後の句点の扱いについては、それぞれの作家の裁量に委ねられるべきである。
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