実のところ、鉤括弧(かぎかっこ)の場合の句点の打ち方には決まりはない。「ありがとう。」でも「ありがとう」でもいい。ただし、わかりやすい文を書く上では、守った方がいい原則がある。ここでは、この点について解説する。なお、かぎかっこの前の読点を打つべきかどうかについては『鉤括弧(かぎかっこ)に読点を打つべきかどうか』で解説している。
1. かぎかっこの句点の原則
わかりやすい文を書くということに焦点を当てるなら、かぎかっこの句点の扱いは、以下のようにルール化できる。
- かぎかっこが文中にある場合は、閉じかっこの前後に句点は打たない
- かぎかっこが文の終止にある場合は、閉じかっこの後に句点を打つ
かぎかっこの中が、単語や名詞節であろうと文であろうと、このルールに従えば分かりやすい文になる。
それぞれ詳しく見ていこう。
1.1. かぎかっこが文中にある場合は句点を打たない
まず、かぎかっこが文中(文頭も含む)にある場合は、基本的に、閉じかっこの前にも後にも句点を打たない。
以下の文を見比べてみよう。
- 私は「ありがとう」と言った。
- 私は「ありがとう。」と言った。
- 私は「ありがとう」。と言った。
- 先生が「これが月光の曲です」と生徒に紹介した。
- 先生が「これが月光の曲です。」と生徒に紹介した。
- 先生が「これが月光の曲です」。と生徒に紹介した。
このように、わかりやすさという点から見ると、閉じかっこの前に句点を打つ必要性がない。そこに句点がなくても、かぎかっこによって、そこまでが一括りであることが明らかだからだ。閉じかっこの後の句点は、言うまでもなく打つべきではない。そのような句点は、明らかに文の理解を妨げる要因になる。
1.2. かぎかっこが文の終止にある場合は句点を打つ
しかし、文の最後にカギかっこが来る場合は、閉じかっこの後に句点を打たなければいけない。例として、以下の文を見比べてみよう。
- ナポレオンの言葉を借りると、私たちには「不可能という文字はない」。
- ナポレオンの言葉を借りると、私たちには「不可能という文字はない」
これはカギかっこがあるからないからと悩むべきものではない。単純に、一つの文の終止には句点を打たなければいけない。このことは、上記の文を、文章の中に当てはめることで一目瞭然だ。
以下の文を見比べてみよう。
- イノベーションを志す全ての人たちへ言いたい。ナポレオンの言葉を借りると、私たちには「不可能という文字はない」。私たちは、ただただ可能性を追求するべきである。
- イノベーションを志す全ての人たちへ言いたい。ナポレオンの言葉を借りると、私たちには「不可能という文字はない」私たちは、ただただ可能性を追求するべきである。
- イノベーションを志す全ての人たちへ言いたい。ナポレオンの言葉を借りると、私たちには「不可能という文字はない。」私たちは、ただただ可能性を追求するべきである。
ご覧のように、この場合は閉じかっこの後に句点がなくてはならない。なぜなら、この文の場合は、『私たちには「不可能という文字はない」』が一つの文だからだ。そのため、かぎかっこがあろうがなかろうが、「文の終止には句点をうつ」という当たり前のルールが適用されて、閉じかっこの後に句点を打った方がわかりやすい文章になるのだ。
補足1. 句点の前に語順や改行を検討するべき
以上のように、かぎかっこが文中にある場合は、閉じかっこの前後に句点を打つ必要はない。しかし、時には、どちらかに句点がなければ分かりにくいと感じる場合がある。そのような場合は、句点を打つべきかどうかよりも、まず語句の順序や改行などを検討するべきであることがほとんどだ。これについては、以下で解説しているので、興味がある方は、ボックスを開いて読み進めよう。
補足2. 文の終止にかぎかっこが来る文の表現について
文の終始にかぎかっこが来る場合は、閉じかっこの後に句点を打つが、この場合の例として挙げられている多くの文は、駄文が多いと私は思う。この点については以下のボックスで解説している。
2. 学校(義務教育)の場合の句点のルール
ここで、もう一つ、学校の場合の句点のルールについても解説しておく必要がある。わかりやすい文を書くことを重要視するなら、上の原則を守ればいい。しかし、学校では、上の原則を守ろうとすると注意されるかもしれない。
学校の作文などでは、基本的にかぎかっこの中に句点を打つように教えているからだ。これは、昭和21年に文部省(※現在は文部科学省)が提案した『くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)』の影響だと思われる。この案の中では、カギかっこと句点の扱いについて、次のようなルールが提案されている。
- 「」(カギ)の中でも文の終止にはうつ
- 「」(カギ)の中が語句の場合はうたない※1
- 「」(カギ)の中が短い引用文である場合はうたない※2
※1. 原案では「引用語にはうたない」と書かれている。
※2. 原案では「引用語の内容が文の形式をなしていても簡単なものにはうたない」と書かれている。
これらのルールについても触れておこう。
最初に言っておくと、これらの学校現場で適用されているルールは、まったくもって理にかなっていない。これらは、わかりやすい文を書くために作られたものではなく、ただルール化するためだけに作られたもののように思える。
さらに言えば、これらのルールはそもそも、定義が抽象的すぎて、とても実用に耐えるものではない。三つ目のルールとなると、不要どころか無駄な混乱を生むので害悪だ。
そのため文章能力の上達という点では、知っておく必要は一切ないのだが、それでも小中学生のためにしっかり解説しておきたいと思う。
それでは、それぞれ見てみよう。
2.1. カギかっこの中が文の場合は打つ
学校教育では、カギかっこがあろうがなかろうが、文の終わりには句点を打つこととしている。例えば、以下のような文の場合、いずれも一つ目が正しいとされる。
- 私は「ありがとう。」と言った。
- 私は「ありがとう」と言った。
- 先生が「これが月光の曲です。」と生徒に紹介した。
- 先生が「これが月光の曲です」と生徒に紹介した。
以下のように会話の場合は、改行をして、かつ、カギかっこ内に句点を打つのが正解とされている。
- 先生は聞いた。
「これはなんという曲ですか。」
生徒は答えた。
「月光です。」 - 先生は聞いた。
「これはなんという曲ですか」。
生徒は答えた。
「月光です」
このようにカギかっこの中身が文の場合は句点をうつ。
2.2. カギかっこの中が語句の場合は打たない
カギかっこの中が文でない場合、つまり単純な語句の場合はうたない。
- 先生が「月光の曲」を生徒に紹介した。
- 先生が「月光の曲。」を生徒に紹介した。
- キャンパスで見かけた「あの美しい女性」が、まさか教授だったとは。
- キャンパスで見かけた「あの美しい女性。」が、まさか教授だったとは。
なお、文部省の案では、「引用語の場合は打たない」という表現をしている。引用語とは、文字通り、他者から引用した語句であって文ではないものだ。この表現は、まったく良くない。他者から引用したものであろうがなかろうが、カギかっこの中が単なる語句である場合は、句点は打たない。
三つ目のルール「カギかっこの中が簡単な引用文の場合はうたない」は不要
このルールは完全に不要だ。原案では、このルールの適用例として以下のものが示されている。
- 「気をつけ」の姿勢でジーッと注目する。
- 「気をつけ。」の姿勢でジーッと注目する。
しかし、この場合の「気をつけ」は一つの文としてではなく、「姿勢」にかかる修飾語として機能している。つまり、これは文ではなく、ただの語句だ。従って、この用例は、引用文の例としては不適切だ。さらに言えば、この場合の「気をつけ」は引用(人の言葉や文章を、自分の話や文の中に引いて用いること)でもなんでもない。
そもそも「簡単な引用文」とは一体なんなのか。何をもって簡単として、何をもって複雑とするのか。その境界の指針がまったく示されていない。この三つ目のルールは、法則として扱うにはあまりにも、その理論的前提が破綻しており、混乱を生むだけだ。そのため、完全に無視してしまって構わない。
以上。学校(義務教育)においては、次の二つのルールに従えば良い。
- カギかっこの中が文の場合はうつ
- カギかっこの中が語句の場合はうたない
補足3. 文とは何か
ここまで見てきた通り、学校文法では、カギかっこの中が文の場合は句点をうち、文でない場合はうたないとしているが、そもそも「文」とは何だろう?なにが文で、なにが文ではないのだろうか。この違いをどう判断するかで迷う場合もあるだろう。この点について、興味がある方は、以下のボックスを開いて読み進めて欲しい。
3. まとめ
以上のことから、わかりやすい文を書くということを最重要視するなら、以下の二つの原則に従えばいい。
- かぎかっこが文中にある場合は、閉じかっこの前後に句点は打たない
- かぎかっこが文の終止にある場合は、閉じかっこの後に句点を打つ
さらに言えば、句点を打つべきかどうかで悩むなら、句点を検討するよりも先に、語順や改行の工夫を検討するべきだ。また、かぎかっこが文の終止に来る場合も、本当にその表現方法でなければいけないのかを検討するべきだ。
義務教育においては、この原則と異なるルールが適用されている。しかし、それらのルールは、ここまで解説してきた通り、本来はとても実用に耐えるものではない。そのような教え方をしていては、子どもたちの作文力や読解力、論理的思考能力の向上にとってさえ害悪なのではないかと私は考える。学校教育における作文法が見直されることを切に願う。
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